アネモネの恋
思い通りに行かない恋愛がこんなに辛いものだとは思わなかった。自分にとって恋愛は人生に不可欠な要素ではなかったし、ましてそれ中心に生きてきたわけではない。喩えるならば、テレビゲームのような時間潰し、娯楽だった。だからうまくいかないならやめればいいし、楽しいときだけやればいい。
それでも、いまの恋愛は喫煙中毒者にとってのニコチンのようにやめたいときにやめられるものではなかった。
久しぶりに女の色香を感じる。深い傷を自分ではどうしたらいいかわからなくなっていた。短絡的な答えかもしれないが、それを女で紛らわせようと思ったのだ。
「ごめんね、待った?」
「ううん、全然。それより、今日は誘ってくれてありがとう。まさかあなたから連絡が来るとは思っていなかったわ」
彼女は嬉しそうに瞬きを繰り返した。風を巻き起こしそうなくらいボリュームのあるまつ毛に思わず目をそらしたくなる。
それでも彼女は金色の髪を風に靡かせて、上目遣いでこちらを見てくるのだ。
「さあ、行こうか」
腰を掴んでエスコートすると彼女はすぐに嬉しそうに笑って歩き始めた。こんなにまで自分を貶めてもこの痛みから逃げたいと思う。これからしようと思っていることは最低なことだと頭でわかっていても、それが唯一の藁なら縋りたいと思った。
「どこへ行くの?」
「…オススメの店があるんだ、そこじゃ嫌かな?」
「いいえ、ついていくわ」
プライドの低い香水が匂う。汗の匂いと混じって頭がくらくらした。
連れて行ったのはレンガ作りのビルのにあるバーだった。行きつけと言うほどでもないが、ここのパスタは女受けがいい。
「私、カルボナーラにする」
「いいね」
アーロンは彼女の注文が決まったのを見て手を挙げた。気怠そうに女店員がオーダーを取りに来る。
「カルボナーラとシーフードパスタを。それと、ロゼの甘めのやつをお願いします」
女にはロゼがいいと思っているのは刷り込みかもしれない。最初の彼女がロゼを好んで飲んでいた。
その色も口当たりのいい味も、女を酔わせてくれる。
「パウエルとはうまくいってるの?」
「最近は喧嘩ばかりよ」
「そう。まあ喧嘩できる相手がいるだけいいさ」
交際相手のいる女を選んだのは面倒にならないと思ったから。数少ない女友達の中でこの女を選んだのは、一番ホテルへ連れて行きやすそうだったから。
二人でパスタを食べながらパウエルに対する愚痴を聞いた。時々、彼女はいるのかと詮索されることもあったが敢えて答えず笑って流している。彼女がいてもいなくても、現状を伝えないほうがホテルに連れ込みやすい。知られてしまうと女の変な勘繰りが作動する。そうなったら厄介だ。
「…ねえ、このあとどうするの?」
女の目のフチが赤い。少し酔っ払ってはいるようだが、意識ははっきりしている。
「そろそろ出ようか」
アーロンはカードを切って支払いを済ませると足早に店を出た。最初からこの後のことが目的だったのに何故か落ち着かない。地上に出ると街はすっかりネオンが点灯していて目に眩しかった。
「少し歩こう」
そう言って歩き出すと女がアーロンの腕を掴んだ。そして甘えた声で言う。
「ねえ、…もう歩けない」
振り返ると女の目は爛々と光り、顔は上気していて欲情しているのがわかった。そんな女の姿を目の当たりにして、アーロンの気持ちが萎んでいく。
「ごめん、ゆっくり歩くよ」
「…ねえ、そうじゃなくって」
目の前にホテルのネオンが輝いているのは見ないことにした。どうにも気が乗らない。直前になって怖気つくなんて思いもしなかった。
「…アーロン?」
急に声を掛けられて振り向くと、プロジェクトのチーフが突っ立っていた。
「チーフ…!?」
「こんなところでなにしてるんだ?」
鈍感なダンは笑顔で近付いてくる。女が恨めしそうにダンを睨んでやっと初めてその存在に気が付いたようだった。
「おっとすまない。お連れ様がいたんだな」
ダンが申し訳なさそうに眉尻を下げた。その表情を見たら急に女に対して理不尽な憤りを感じた。
「友達のメアリーです。さっきまで昔の仲間と飲み会だったんですが、ちょっと酔っ払ってしまったみたいで」
「そうだったのか。大丈夫かな」
アーロンの嘘に眉を顰めたメアリーがアーロンの腕を握る手に力を入れた。パールのネイルアートが施された長い爪が食い込んでいる。
「…ここまで来たらあとは一人で帰れるだろう、メアリー。今日はお疲れ様。オレは上司と話があるから、先に帰ってて」
腕をほどきながら振り向き、メアリーを軽く目で制した。ダンに見えないところで携帯をちらつかせる。
メアリーは少しの間アーロンを睨むようにして見ていたが、アーロンが片目を瞑って携帯を二度指で叩くとその偽の意図に気付いたようだった。
「わかったわ、じゃあね」
「ああ、またね」
アーロンが手を振ってその後ろ姿を見送る。ダンの方へ振り向くと、ダンが心配そうにアーロンを見た。
「大丈夫か、彼女」
「ええ、問題ないでしょう。顔に出やすいタイプだと言ってました。意識ははっきりしていましたよ、今から2軒目に行きたいとさっきまで騒いでいたくらいですから」
メアリーを悪者にするのに良心は痛まなかった。ダンの前でだけ、いい人でいればいい。
「チーフこそ何をやっているんです、こんなところで」
繁華街のネオンはダンに似つかわしくない。アーロンが尋ねると嬉しそうに少し頬を綻ばせながらダンが答えた。
「いや、それこそ俺も昔の仲間と飲み会だったんだ」
ダンがあまりに嬉しそうにしているので少し苛ついた。自分といるときはこんな顔をしないくせに。心の中で毒つく。
「そうですか。今からどうです、2軒目行きませんか」
「お、いいな。行こうか」
「あっ、そうだ。もしよかったら、うちに来ませんか?この前美味しいウイスキーを貰ったんです」
「いやいや、そういうのは大事な仲間と飲みなさい」
「いいえ、オレの周りは下戸ばかりでウイスキーなんて手を出しません。せいぜい甘いカクテルくらいだ。せっかくいいものを貰ったのに出し場がなくて困っていたんです。それに酒だって好きな人に飲まれたほうが幸福に決まってる」
そう畳み掛けるとダンは少し考えるそぶりを見せたが、すぐにアーロンを見た。
「本当にいいのか?」
「むしろチーフに飲んでほしい」
「…それじゃお邪魔していいかな」
「ええ勿論。車で行きましょう」
アーロンは近くに停めてあった車のキーをダンに見せる。ダンは何の疑いもなくついてきた。
車に乗り込むと、アーロンの携帯が震えた。メアリーからだ。
“From Mary
駅前のカフェで待ってるわ。
会社の上司に会うなんて大変ね。
早めに連絡ちょうだい。
楽しみにしてるわ”
案の定、少し会社の上司に付き合ってから連絡が来るものだと思っているらしい。予想はしていたがやはり一人の女友達を裏切るのに、そう心は痛まなかった。
「さ、行きましょう」
アーロンはアクセルを踏み、自宅マンションへと車を飛ばした。
満月の明るい夜だ、郊外に出ると月明かりが眩しく感じる。車内ではラジオを掛けていた。DJが調子のいい話ばかりして流行りの音楽を流していく。
「アーロンは車の中で普段何を聴くんだ」
「車に乗っているときには何も聴きませんね。エンジン音とかきちんと聞いてやりたいので」
「そうか…」
アーロンの返答に戸惑ったダンが気まずそうに笑う。その薄い笑い声ですらもアーロンの欲情を刺激した。
「普段はロックを聴きます」
「そうか、俺もロックが好きだよ」
「チーフは一昔前のを聴くんでしょう」
「生まれたときくらいのとその少し前の音楽が好きなんだ」
50年代~60年代はダンが好きだと言っていたからかなり聴き込んだ。そんなことを本人には言わない。
「そういえばギターを弾くんでしたっけ」
「いや、不器用で弦がうまく押さえられなかった。すぐに挫折したよ」
「仕事部屋に置いてあったから弾けるのかと思っていました。少し練習したらどうです、きっとよく似合いますよ」
「そんなまさか」
運転していても車は少なく、ダンの表情を伺う余裕がある。盗み見たダンの横顔は少し照れているようだった。横から見ると睫毛が意外と長い。最近年が出てきたその頬にも、今すぐ触れたいと思う。
「もうすぐです」
「…いい街だな」
緑も多く、近所も静かでアーロン自身も気に入っている街だ。道も広く、車も通りやすい。
マンションのエントランスで一度ダンを降ろして、可動式の車庫に入れると小走りで戻った。
オートロックを解除して中に入る。ダンは興味深そうに辺りを見回していた。不意にダンの匂いを感じて、また欲情する。どうなってもいいからこの熱を解き放ちたかった。
「さあどうぞ」
平静を装ったまま部屋に入ると、その後についてきたダンが後ろ手にドアを閉める。二人になった途端に我慢の限界が来て、次の瞬間には玄関のドアにダンを押さえ付けていた。
「…アーロン…?」
「アナタは何にもわかってなかったみたいですね」
ダンがひどく驚いた顔をしたから余計に苛立った。自分のこの焦げ付くような気持ちに気付いていなかったとでもいうのだろうか。
「オレはあんたのこと、ただの上司だと思ったことなんて一度もなかったですよ」
「…なにを言っているんだ、アーロン」
「まだわかんないのか。オレはあんたを穢したいと思ってる」
そう言うと、ダンの表情が固まった。そこには衝撃と拒絶の色が滲んでいて、アーロンの視界から鮮やかな色が抜けて行く。
二人は長い間見つめ合っていたが、ダンが辛うじて顔を背けてからようやく時が動き出した。
「…お前がそう思っているなんて、全く気が付かなかった」
苦いものを噛み潰したようにダンが呟く。その顔を見ても萎まない欲情が憎い。
「アンタは本当に鈍いんですね。呆れるくらい」
吐き捨てるように言った。別に鈍くても構わない、いまは溜まりに溜まった欲望だけを吐き出したいだけだ。アーロンが顔を近付けてもダンはもう顔を背けなかった。本意ではないのに、気持ちに応えようとするその態度が気に食わない。
「嫌なら嫌って言えよ…!」
ダンは困った顔をしたがすぐにアーロンの目をみた。真っ直ぐこちらを見る目は澄んでいる。
「お前を失うのは嫌だ」
ダンから返ってきたのは意外な言葉だった。だがそれは、微妙にアーロンの意図とは噛み合わない。
「お前は俺にとって大事な人間だ。お前を失うくらいなら、別にこれくらいどうってことはないさ」
この男はどれだけ人を苦しめたら気が済むのかと、頭が痛くなった。そういう気持ちで耐えるという行為が、拒むこと以上に人を傷付けると気が付かないのか。
「…どうなっても知りませんよ」
アーロンはくちびるを噛んだ。ダンはその様子を見てまたアーロンの目を見つめ返すと自らくちびるを寄せてきた。耐え切れず噛み付くようなキスをする。ダンは顔を引くことなく、ただきつく目を閉じて応えた。
「…きちんと拒んだ方がいいですよ。オレはしつこい男なんでね」
痛いキスのあと、アーロンがそう告げるとダンは少しだけ苦く笑って答えた。
「…男に好かれるのは嫌いじゃない」
また少し噛み合わない返事をしてくる。それが素なのかそれとも交わすための言葉なのかわからず苛立ちが募った。
「…アナタのそういうところ、嫌いだ」
吐き捨てるように言うとダンが少し傷付いた顔をした。怒っているはずなのに、そんな表情を見て心が揺らぐ。手を押さえつけてキスをした。少し強引に舌を入れるとなんとはなしにダンが舌を絡めて来る。
驚いて目を開けるとかたく目を閉じたダンの顔。
「卑怯な人だ」
アーロンが身体を離すと、ダンが少し疲れた顔で少し笑った。
「…酒用意しますよ、座っててください」
アーロンは、そのまま振り返ってキッチンに立つ。まだ余韻で頭がくらくらした。欲望はまだ渦巻いているが、ダンの顔を見てると理性が勝った。
「…ありがとう」
ダンが少し安心したような顔で微笑む。その顔は自分が惚れた顔そのものだ。
「アーロン、ありがとう」
キッチンに寄って来て後ろからそっと頭を撫でられた。アーロンの身体が固まる。
「…我慢出来なくなっても知りませんよ」
アーロンは言いながら不意に泣きそうになった。この男はずるい。優しすぎる。
「そのときはそのときだ」
ダンの声は優しい。アーロンがそうならないことを見越しているのだろう、そんなところも憎いが不思議と衝動は消えていた。
「さあ、飲みましょう。もうあなたに隠すことは何もないから何でも話せる」
「…そうだな」
アーロンは笑った。もう気持ちを隠すことも必要ない。衝動も消えた。少しの淋しさはあるが恋人としてでなくとも、互いが必要なことはわかりきっている。
ダンが酒に口をつけるのを見て、アーロンもグラスを持ち上げた。