紙ヒコーキ

年下攻め若干多めのBL小説サイトです。毎週日・火・木曜日更新です。現在は大学生モノを連載中ですが、今後は軍事モノにも手を出す予定・・・。耽美な雰囲気と文章力向上をめざし日々精進です。

【6】フレイム 2003.1.22(2000.4.1) -Piers side-

 

 

ピアーズは辛うじて歩を進めた。もうすっかり辺りは暗い。思い出したくないのに、教授の顔が、あの狂気に満ちた目が、触れてきた繊細な手指が、思い出されて仕方なかった。
涙がぼとぼとと地に落ちる。

「ピアーズ!」

聞き覚えのある愛しい声にピアーズがはっと顔を上げる。闇にぼやけているのか、それとも涙か、眼前にはクレイグの姿が見えた。

「…クレイグ…」
「こんな時間まで連絡寄越さないで何してたんだ?」

駆け寄ってきたクレイグが、急に呼吸を止めた。ピアーズの涙に、気づいたのだろう。クレイグの、親のような言葉に思わず少しだけ口元がゆるんだ。こんなに心配してくれる人がいるのだ。

「…何があった…?」

ピアーズは首を振る。
誰に知られるのも嫌だったが、一番知られるのが怖いのが目の前の男だったのだ。

「ピアーズ!」

思わずクレイグが腕を掴む。
その瞬間、教授にきつく腕を掴まれたのがフラッシュバックして身体が硬直したのがわかった。

「…悪い…」

それを見たクレイグが、ひどく傷付いた顔をした。
そしてそっと、ピアーズに遠慮して距離を取ってくれる。そしてタオルをピアーズに渡した。

「…とりあえず、帰ろう。お前の家に、行ってもいいか?」
「…ああ」
「悪い、その前に校門の鍵返してくるわ。一緒に来て」

クレイグはきっと、心の底から心配してくれているのだろう。鍵を守衛室に返しに行くくらいのこと、付き合わせたりしたことはなかった。片時でも離れるのが不安だと感じてくれているせいだろう。

二人黙って守衛室まで歩いた。いつもなら黙ったまま並んで歩いても気まずいなんて思ったことはないのに、どうして今日はこんなに気まずいのだろう。
守衛室は闇の中で浮いたように光を放っている。

「ここで待ってろ」

クレイグはピアーズに言い付けると守衛室に入っていった。プレハブの窓から守衛と軽い世間話をしているのが見えた。漏れ聞こえた声によると、クレイグが医学部一の秀才であることを、鍵と引き換えに預けた学生証を見て知った守衛が感心して声をかけているといったところだろう。

どうしてクレイグは、こんなにも愛にあふれた人なのだろう、と時々不思議に思う。
クレイグは人見知りのようでなかなか他人とは簡単に打ち解けない節がある。それもいまの守衛相手のような社交辞令だけなら簡単なようだけれど。でも、コンラッドやユージン、エルバート、そして自分、本当に仲良くなった相手には無償の愛情を注いでくれる。いつだったか、ピアーズが困った時にはためらわずに手を差し出してくれるそのクレイグの優しさを身に染みて感じたことがあった。

―――あれは大学の入学式の日だった。式の後、入学パーティが執り行われたときのこと。

ピアーズはもとからそんなに酒が飲めるたちではない。学科も関係なく、クロスしながら新入生たちは教授や先輩たちと歓談を楽しんでいた。

「ピアーズ」
「クレイグ…」

高校生の時は講演会や社交パーティにいくときに少しみたくらいのスーツ姿。今日はいつにもましてスーツをまとったクレイグがまぶしく見える。

「誰かお相手はいるか?」
「いや」
「それなら俺が一番乗りだな。あっちで飲まないか」
「うん」

さっき少し話した同じ学科の男(名前は失念した)は遠くで楽しそうに教授と話をしている。ピアーズは悪いと思いながらもクレイグのあとをついて喧噪を抜けた。
そしていまもよく使う、医学棟のテラス席まで二人で歩いてきた。

「さっき教授に教えてもらった。良いところだろ?」
「ああ、街がきれいに見える」

春の夕暮れは水彩画のように繊細だ。そこに地上の光が集まって、ぼやけた紫色の空を飾る。

「友だちは出来そう?」
「うん、そっちは」
「…教授にはバレてた。社交パーティであったことのある人たちも何人かいたよ。まあ当然だよな。でも、みんないい人たちばかりだ」
「そっか、良かったな。これからは、同じ志を持った人たちと過ごせるから、有意義な時間になると思うよ」

ピアーズの言葉を、クレイグは黙って受け止めた。二人の間に沈黙が落ちる。

「飲み物とってくるよ。何がいい?コーラでいいか?」
「うん、ありがと。お前はお酒飲んでいいよ」
「じゃ、お言葉に甘えて」

クレイグが席を立ち、喧噪のなかに戻っていく。ピアーズは春の夕方の空気を胸に吸い込んだ。桜の花の香りが鼻孔をくすぐり、パーティの明かりが漏れてくるのがなんとも言えない趣に感じる。

「おや、先客がいたかな」

ピアーズが空気に浸っていると、どこかの教授らしい身なりの初老の男性が笑いながら近づいてきた。

「あ、すいません…」
「ああ、いや結構。誰かと待ち合わせかな?」
「医学部の友人と」
「そうか、私は医学部の者だからね、医学部の学生が来るというならぜひともご一緒したいんだけれど、どうかな?」
「ええ、喜んで」

ピアーズは内心戸惑ったが、医学部の教授であればクレイグのためにもなるかと思い取り繕った。

「君は、どこの学科なのかね」
「自分は建築学科です」
「ああ、そうか。いいね、私は芸術のセンスを1ミリぽっちも授からなかったので羨ましい限りだ」

教授が愉快そうに笑う。目元のしわが人の好さを表していた。

「センスがないから勉強しに来たのです」
「そりゃそうか。おっ、キミの待ち合わせの相手と言うのはバラクロフ君かね?」

教授がそういうので振り返ると、少し驚いた表情のクレイグがこちらに歩いてきていた。

「どうされたんです教授」
「キミのご友人とは知らなかったよ。紹介してくれるかな?」
「ええ、こちらはピアーズ・エインワーズです」
「すいません、紹介が遅れまして」

ピアーズが立ち上がり握手を求める。

「いやいや。私こそ名乗らずに申し訳ないね。アリンガムだ」
「アリンガム教授。…お会いできて光栄です」
「私もだ。あのバラクロフ教授のご子息と、そのご友人とお話しできる機会をいただけたのでね」
「教授、何かお飲みになりますか。お持ちします」
「いや、すぐに私の助手が来るから。そのときにきっと持ってきてくれるはずだ」

そうしているとすぐにその助手というらしき大学院生と助教たちの群れがやってきた。そしてもとは二人だけだったのが三人、七人と増えていく。

「そうか、高校からのね」
「ええ」

なぜかピアーズは助教たちに気に入られてしまい、囲まれ、色んな事を聞かれた。
その中の大学院生に一人、建築学科に彼女がいるということでなおさら興味がわいたらしい。クレイグと教授が自分たちの付き合いを話しながらこちらを眺めているのを、ちらりと見やる。

「ほら、ピアーズくん、もっと飲んでいいんだよ」
「あ、いえ、自分は」
「ウエイター!こっちにボトルでウイスキーをくれないか」

さっき飲んでいたはずのジンジャーエールがどこかへいってしまった。
ピアーズは狼狽する。あまりたくさんのお酒を一度に飲んだことはないし、こういう雰囲気も初めてだ。エルバートもユージンもお酒に弱いので、酒に強いクレイグとコンラッドもいつも様子を見ていてくれた。

「それで、ピアーズ君はなんで建築学科に入りたいと思ったの?」
「幼いころからの夢でして」
「へえ。俺の彼女もさ、変り者で世界中の高層建築を見て回るって休日のたびにどこかへ出かけるんだ。高層建築って言ったって、アメリカ全土でも一生で回り切れるかどうか。でもそれを本気にしてるんだ」

彼の話はとどまるところを知らない。そうしている間にウイスキーがピアーズの目の前に置かれた。こういうときだけ用意のいいウエイターが恨めしく思う。

正直、酒に酔うのは怖い。よく酒にのまれて記憶をなくしている大人たちがいるが、自分はああはなりたくないと思う。記憶のないところが人生の中に数時間でもあることが怖いのだ。いつかそんなことをクレイグにも話したことがあった。
それでも、ピアーズはそのウイスキージョッキを握る。

「先輩、先輩の話も少しは聞かせてくださいよ」

ふと気づいたとき、隣にやってきたのはクレイグだった。そしてそっとピアーズの手からジョッキを奪う。

「おお、バラクロフ君。君とも語り合いたいと思っていたんだ」

楽しそうに笑う先輩の目の前で、クレイグはぐっとジョッキを煽って見せた。ジョッキはいっきに空だ。

ピアーズはクレイグの横顔を見たけれど、クレイグは何も気にすることなく先輩との話を続けている。教授はまた、助教と語らっていて、タイミングをみて酒を飲まされそうになっているピアーズを救い出しにきてくれたのだとわかった。

ピアーズの胸が高鳴る。どうしてこんなにも優しく、寛大なのだろう。しかし悔しいけれど、ユージンやエルバートがここに座っていてもクレイグはそうしたはずだ。
誰にも分け隔てなく、惜しみない愛情に満ちたひと。それがピアーズの目に映るクレイグだった。―――

 

 

「悪いな、寒い中待たせて」
「いや…」

突然かけられたその声に、ふと我に返った。
クレイグが眉を挙げて、困ったように笑う。

「帰ろう」

カバンを肩にかけて、クレイグが少し先を歩き出す。ピアーズはなんとなく、そのあとをついていくようにして歩き出した。

「何が食いたい?…食べれるか?」
「…ああ。クリームシチューがいい」
「わかった。スーパー寄って行こう」
「うん」

クレイグはもう何があったかは聞かない。ピアーズが打ち明けられるようになってからそっと聞いてくれるのだろう。そして、さっき咄嗟に聞いてしまったことを、後悔しているのだろう。
そのときのことを思い出して、ピアーズはまた泣き出しそうになった。さっきあれだけ泣いたのに、まだ涙が出るなんて。

「なあ、ピアーズ」
「…ん」
「俺が怖くなったら、いつでも離れていいからな」

クレイグが急に、振り返りもせずに言った。その声音からは何も読み取れない。ピアーズはぽつんと、闇に置いて行かれたような気になった。

「…なんで、そんなこといきなり言うの」
「…いや、なんとなく。ごめん、あんまり気にしないで」
「なんで、…お前がそんな泣きそうな顔してんだよ…」

こちらを振り返ったクレイグの顔をみたら、自然とそんな言葉が出た。

「…ごめん…」

クレイグの言葉尻が濁る。いつのまにか歩みを止めてしまった足を一歩、二歩とピアーズは進めた。そして。

「オレがお前から離れるなんてことはないから、絶対に。少なくとも、オレからは」

腕が恐怖に震えるのをこらえて、クレイグを思い切り抱きしめた。あとから思えば、なぜそうしたのかはわからない。自分よりずっと身長の高いクレイグが、小さく見えたから。理由はそれだけかもしれない。